
私の愛車TACOMA
ChatGPTに栄養素や体の仕組みについて書き込んでやり取りしていたら、
ひょんな流れで私の「休み」の話に。
私は「休日」というのは特に設定していないけれど、休みと感じる時間を作るためにすることは、サーフィンに行くこと。気合を入れて海へ、というより、日常の延長線上にある自然の中でする運動という感覚。心身ともに根っこから軽やかに、実感をもって変化する時間で、私にとっては一番贅沢な時間。
TACOMAにボードを積んで、海へ。波がいい日だとそれはそれは最高。
波が小さくても、海から上がる時の波打ち際の水が透明だと感じたときは「いい波乗りだった」と心から感じる。この透明感のある砂浜の水面を見ることが、私のひとつのものさしになっている。
海から上がったら、いつものオーガニックスーパーで買い物をして、冬から春先までは大好きな焼き芋があるから、それを買う。
そして、スタバのアーモンドミルクラテをショット追加のホットでVentiサイズ、というのが私のお決まりコース。
運転しながら、ラテを飲み、焼き芋をほおばる。至極の時間。
しゃれたお店にいるよりも圧倒的な贅沢を感じる私らしい時間。
こんなことをChatGPTに書いてみたら、素敵だというではないか。
素敵って、自分のことに言われると不思議。
ChatGPTのセリフでも、ちょっと気持ちがあったかくなる。

あたりまえのことといえばそうなんだけど、実に人というのは多様だと思った。
人そのものもそうであるし、生き方、生き様、考え方、価値基準、善悪、定義の仕方、などなど
独り身で、特別に不便なことは今の処は大したことがなく、独りであるからこその恩恵みたいなものの方があるだろうか。私の性格や性質にあっているという意味で。
他者とはどんなに親しい人、家族であっても、絶対に同じ価値観を持ち合わせることはなく、違って当然。
違うことこそ、人が人らしくいられる理由であるし、違いを受け入れるために、一生かけての人が持ち合わせる課題にもなっているかなとも思う。
違うことが前提で結婚やパートナーシップは結ばれると思うわけだけど、
もちろん、ことの最終着地は他人にはわからない領域ではあるものの、
パートナーシップの間で一方が一方の何かを決め打ちするような考え方や捉え方は、なんというか、
聞いていてあまり気持ちがすっきりすることではないものだと思ったという記録。
昔の日本は男性を「主人」というように、多くの場合は夫婦や家族であれば男性が一番年上で稼ぎ頭で力を持っていた「主」だったわけだけど、同じ構造で一部が違う同じようなスタイルもあるわけで。いずれにしても、年功みたいなものが上下をつけることはどの時代も多くは不変で、なくさなくてもいいと思うけれど、年功があることで受け入れざるを得ないものがある状態は、なんとなく違和感を覚える。
と、自分はいつ頃からそういった階級制度や年功制度みたいな現象に敏感になったのか。
時期は不確かだけど、どうも長い間、そのような風景を見ると気持ちが45度くらい傾く感覚がある。あれ???って。
最近、認知科学や行動経済などの言葉が、比較的アクセスしやすい場所に存在するようになって、いままで自分の中に当たり前のように存在していた感覚を、あらためて客観的に眺める時間ができたりする。
これまで是としてとらえていたことも、角度を変えるとそうでない側面やその本質が見えてくる。
いかにその是としていることへのバイアスをフレキシブルにしておくか。
バイアスを完全に取り除くことはできないが、それを柔軟に取り扱える感覚は持ち合わせられるような気もする。あくまで自分自身の個人的なことであれば。

渋谷のスクランブル交差点。まともに交差点を歩いたのは何年ぶりだろう。
もしかしたら、もうずうっと歩いてはいなかったかもしれない。
海外の方が多いとは思っていたけれど、感覚的には8割みたいな感じがしたことと、
何より驚いたのは、交差点に面した2階にあるスタバの窓際。
あんなに外国人が窓に張り付いて、交差点を行きかう人を写真やビデオにおさめようとしている様子に、びっくりした。そんなに価値のあるものなのか。
日本人として、日本人が海外でやる同じことが、自分の住む国であるというだけのことなんだけど
なんというのか、大柄な人たちがこぞってひとつの場所に集中して、一斉にスマホや一眼レフをむけて動作している様子に、妙に驚いた。
この驚きは、その行為そのものよりも、自分の中にあるバイアスによってあぶりだされた景色という感じだろうか。
自分のあたり前と他者の当たり前は違うのだから、当然なんだけれど、何か自分の中にあったひとつの回線が溶けたような感覚があった気がする。