
5か月ぶりの海では、今までにない感覚を味わった。
まずは、海に行くまでのTACOMAが快調だということ。
スムーズになんの問題もなく走る、その喜びをかみしめた。
海ではオフショアから始まり、波は小さいけれど、久しぶりの私にはちょうどいい。
初めはぎこちないかと思ったけど、思ったほど感覚は忘れていない、5か月入っていなかったという感覚がないことの方が少し驚きだった。
脳の記憶、体の記憶というのはすごいものだと感心した。
途中水平線の色が変わっていることに気が付いた。
うっすらと横線が入っているような景色。
あれはなんだろうと思いながら、ふわーっと一瞬にして海面の景色が変わっていき、風が変わった。
本当にカチッと音がなるくらいの様子で、北風から南風、オフからオンに変わった。
「あー、風がかわった…」と思った瞬間、近くにいたローカルサーファーの元気な女の子が、「スイッチはいったねぇ~」と大きな声で言った。
ああ、風のスイッチが入ったんだと、海にいないと感じられない感覚を覚えて、うれしかった。
海での感覚が日常のどこでどう影響するのかはわからないけど、自然の中に体を浸して過ごす時間というのは、やっぱりいい。
目に見えないけど、体の深部がいったん浄化されるような感覚が確かにある。
心のおり、みたいなものが、自分でもわからない微細なものの集積が、スーッと海に流れていく感じがするのだから、ありがたい。
今月は海の時間を複数回作ると決めている。

新年度だからなのか、「マインドセット」という言葉をよく耳にする、気がする。
私自身が気にしているから、耳に届いてくるのかもしれないが。
私自身の〇〇セットでいうならば、いよいよ「ボディマインドリセット」が必要とひしひし感じるところで、ChatGPTに私の最適スケジュールをだしてもらってみた。
何が最適解なのか。いずれにしてもやってみないとわかならいわけで、ひとまず自分が考える以外のスケジュールを試してみないと、なかなか自分流から抜け出せない。
更年期らしき目に見える不調は、有難くもないけれど、体の変化は感じる。
年齢が重なっていくことで、いい部分であっても変化すれば、それに応じた変化を伴わなければ、どこかに無理が来る。
その最たるものを、ここのところ感じる日が増えた。
体重とか体脂肪とかいうよりもはるかに重要なのが、私にとっては血糖値。
まだ健康診断の結果は出ていないし、自分が想像するほど悪いこともないのだろうが、、、
最善最良の状態でいたいという、健康に対する異様な願望と強欲が私にはある。
ここまで無事に生きてきているからこその、何かとの約束のように、この健康体への執着は自分でも年々強くなると感じる。

20代後半、毎日のように怒られ続ける日々(というイメージが強い)、何回も「辞めてやる」と思って過ごしていた。
そう思った瞬間は思い出せないけど、思考を転換した瞬間のことはありありと記憶している。
会社(お店)の2Fから3Fへの階段の途中、薄いピンク色の壁、
気分を上げようと、朝自宅からカットしてわざわざ持って行ったハマユウの大きな葉をお店の階段にディスプレイした時。
「半年後も今のこの感情と同じかな…」
と、頭に浮かんだ。
「1か月後の今、同じこと思っているのか?」とか、
「2週間後は?ま、それは同じか、いや、もうすでに別のこと考えてるな」とか
じゃぁ、今のこの感覚は一時的な感情の高ぶりか、、、仕方ない、今日はなんとかやり過ごそう。
こんなことを一人でその階段の踊り場の、ほんの一瞬みたいな時間に考えていた。
その自分の目線に映っていたものが、ほんとうに驚くほど鮮明にある。
なぜこういう視点を持てるようになったのか。
さんざん写真を撮る時に「俯瞰の目」と言われ続けたことが、じわじわと自分の中に落とし込まれたのかもしれない。自分自身をも俯瞰する目を養っていたということなのか。
この「〇か月後も同じ気持ちか?」という自分への問いは、そののちもとても役にたっている。
実際にどう考えても同じだという結論に至ると潔く決定できる。が、なかなか決定を実行に移すのにハードルがあったりもしたけど。
このころの客観的な目線はまだまだ粗削りなものだったと思うが、
その素質を自覚できていた自分はなかなかいい筋を持っているではないか、と自分のことながら感心する。
前向き思考という一言に収めるには、人の感情や思考は多様な側面があり、それをひとつひとつ分解して捉えないと、自分ごとなのにとても大雑把な捉え方で「わかった」という設定になってしまう。
面談をするとき、私が大事にしているのはこの分解の先に見つかる小さな点のような気がする。
その人が本当に持っている、自分でも気が付かない点。
小さい点だから、いきなり仕事で活用できたり上達を促すものでもないのだけれど、確実にその人の中で育っていき、それが軸となり幹を太くすることも大いにある。
とはいえ、その行為そのものには時間を要するわけで、人の小さな点を見つけることに時間をさく余裕など、どこの会社も難しいだろうと想像する。
それでも、この点に気がつくことが自ら発見できれば本人も周囲もハッピーだが
気が付かないままに走らせていると、早い段階で息切れしてくる。片方か、双方ともに。
昨日、認知科学についてのトークを聞いている中、クリティカルシンキングについての話があり
その言葉を知ってはいたが理解はしていなかったところで、すでに実装していた自分を思い出した。
思えば、ずっと大事にしている「クリティカルシンキング」。前向き思考ではなく、こちら側の解釈の方が自分には近い。
この思考回路も、おそらくヨガを毎日練習していた時に知らぬ間に蓄積され、小さな芽だったものが、実態を帯びてきたひとつな気がする。