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大吉朋子 ブログDesigns854
日々、何気なく考えていること、大事にしていること、感動の瞬間日記など思うままに書いている大吉日記。
私自身の備忘録のような、新しい発見になるときもあるから、言葉におこすことは大切ですね。
2025.04.24

「でも」「だって」をどう受け取るか。

部下との会話の際に出る「でも」「だって」について。

私には部下はいないから、実際のところはあくまでも想像であったり、過去の体験の記憶をたどることしかできないが、おおよその景色は見える。

若い時には、「でも」「だって」は、もはや口癖のような気もするが、自分が発する言葉そのものにさほど意識が向いていないから、無意識に反射的に口にしているケースもあると、自分の過去を思い出してもそうであるし、実際の面談でも感じることもある。

私が面談で受けるそれらの言葉は、その人の意思なり、何か気持ちの動きが出たサインとも受け取れるから、「お!」と思う瞬間だけれど、毎日のように複数の部下との対話をもつ上司であれば、何かを伝えたり指摘したりする度に、「でも」や「だって」を受け取るのだからが、冷静に受け止めたいという気持ちとは裏腹に、次の言葉を繰り出すことに躊躇し、しだいにその部下に対してあきらめの気持ちが強まっていく、というのも十分理解できる。

根気のいる対話であり、上司側の時間的な余裕や心にも余裕がなければ、会話を構築し続けるのはとてもむずかしい。

ただこの時、上司側が、「でも」や「だって」の自分自身の受け取り方によって、ある事実がイヤな感情と結びつきやすくなっていることに気が付けるといい。「でも」や「だって」を自分の発言への不満や反論と受け止めてしまうと、誰でもいい気持ちはしないし、これ以上言っても無駄だと諦めてしまうこともあるから。

「でも」や「だって」は相手からのサイン。
サインが出たら、「お!きたな!」くらいに受け取って、「あなたはなぜそう思うのか?」と、”でも”の理由を聞いてみるといい。すると、相手の思いや考えにもう少し触れることができるかもしれないから。

昨日はその話題のとき、そんな話をさりげなくしてみた。

2025.04.23

人の強さについて考えてみる(序章)

人の悩みの大半は人間関係といわれるが、「悩み」にも幅や深さ、奥行きがあると思う。
悩んでいるといっても、それほどの悩みでない場合もあるし、またその逆もある。悩まなければいけないことはなく、何か解決策を講じた方がいい場合。

人間関係が複雑なものと受け取ってしまう理由には、表からはそうは見えなくても、人の心の奥底にある自分でも認識していない欲求が種となって、支配する&したい側が生まれ、その矛先となる支配されざるを得ない側という関係性が生じているように思う。

職場においての”上下”は一見すると、仕方のないもののようにも見えるが、実はそれなくしても、関係性は十分成立するものだという私の考えは、現実的には無理とも言われるし実際に難しいことも確かだけど、不可能ではないとも考える。
そこにはケースバイケースでさまざまな視点や思考が必要だから一概に「これが正解」とはいかないけれど、どんな事実も受け取り側の捉え方で現象の景色はかわる。

中学生の時には、この「先輩&後輩」という世界観にどっぷりつかっていたわけだが、今思うと、その頃からその現象にはとても違和感があったし、理不尽なその関係には腹の底ではまったく同意していなかった。だから、生意気だといわれ ”目をつけられる” ことになった。それでも、最終的には真実が強いというのか、安易な上下関係による”目を付けられる”関係であっても、こちらが毅然とした態度で、そのことにおびえもしなければ、相手もつまらなくなり、次第にその行為はなくなっていった。

何が強さなのか

まずは、おかしなことをおかしいと思う気持ち。
そして、それを行動にうつす勇気、だろうか。
こども時代はこれはかなり実現できそうだった、私の時代は。
では大人の、社会に出たらそれはどうなのか。

子どもたちの環境も40年近く前とはまったく違うし、そもそも大人の環境が変わり、良くも悪くもOKとされる思考も行動も多様になった。

人の本質、基本的なものは変わらないと思うのだが、「こどもの事情」も「大人の事情」も、多様に絡んできて、思うほどシンプルにはいかないのだろうが、あきらめることもないと本気で思う。

2025.04.21

からだの感覚は仕事にもいきる。

グループレッスンでのこと。

ピラティスとHIITの掛け合わせで、少しきつい動きのある、アクティブなレッスン。
このきつさを、自分ひとりで生み出して継続するのはさすがに難しいから
このレッスンに参加することは毎回とても楽しみ。終わった後の達成感、今日もできたという自己満足感は、幸福感にもつながっていると思う。

そんな中、つい、周りが見えると観察する癖が出てしまう。自分の体に集中する少し前に観察思考が働く。

トレーナーがガイドする言葉通りに体を動かせばいいし、その体の配置をすればいいだけのはずが、よくみると完全な自己流でやっている人、またはその立ち位置なりに意識が十分に向いていない人が、なかなかの人数いる様子。動きができないのか、たんに雑なのか。個々の体の内部はわからないが、どうも人の声を聴いているようで聞いていないとしか思えない動き。

聞いているとしても、聞いていることと、それを体で表現することはもちろん個体差で違いが生まれるものだが、どうもそこでもなさそう。聞いているようだけど、聞いていない。

その光景を眺めて思うのは、自分の体の動かし方ひとつに微細な意識が向けられることは、おそらく仕事の微細な部分にも気が付けるはず、ということ。大雑把にしか見れなければ、ふだんもそういう視点になりがちだろうと。一見、形ができていそうでも、ところどころに手抜きがあったり、慣れでやっている感じだったり。まさに、仕事にも通じる姿勢がそこに映るように見えてならない。私とは全く関係のない人たちなのだから、あくまでも自分の観察記録。

自分の体に対して感度の高い人は、やはり冴えている気がする。
おそらく間違いない。

カラダの動き、動かし方、意識の向け方によって、見えない部分が見えることはおおいにある。

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