
ふだん行く時間と違う時間帯に出かけると、いつもと違う光景が広がる。
近所のスーパーへ買い物に行く時のこと。
だいたい夕方、暗くなってから行くことが多いと、近所の学生さんや会社帰りの人が多い。
日中となると、その様子はまったく異なり、家族の背景を色濃くした人、高齢の方が断然多い。
その昼間の出来事。
最後の袋づめの場所で、おおげさではなく毎回違う人だけど、同じ行動をする人を見る。
ものすごい量の買い物をしているのだが、袋詰めをする台を占拠するがごとく、周りのことなど一斉気にすることなく作業をしている。
少し眺めてみても、こちらの視線に気づいているのかもしれないが、気にする様子なく、この場所は今は私(俺)のもの、と言わんばかりに袋詰めをしている。
何を考えながら、大量のものを袋詰めしているんだろうと想像を膨らませてしまう。
独りだけの場所ではないことは明らかでも、ゆずれない何かの思いに駆られているのか。
そして、なんとなく不機嫌そうに袋詰めをしているのも共通で、その気持ちがそのたたずまいに現れている。
機嫌よくいること、どんな場所でも大事だと、つくづく思う。”いい人” でいる必要はないかもしれないが、不機嫌をあらわにする必要はないような。よほど自分の安全が保てないことがあれば別だが。
きげんよくいることのメリットはとても大きい。
笑顔も同じ。
心がそう向かないときだってある、それでも少し上を向いたり、挨拶の声のトーンをひとつ高く意識することで、周りが受ける印象も違うし、何よりも自分自身の心持が驚くほど変化する。
無理やりでも、挨拶ひとつでも、自分をほどほどにきげんよく維持できるワザをもっているといいのになと、スーパーからの帰り道、しみじみ思った。

ときどき、朝の通勤ラッシュ電車に乗る。
大学を卒業後の12年ほどは、毎朝の都心へ向かう通勤で乗る機会もあったけど、昔からラッシュが苦手、、まぁ得意な人はいないと思うが、だからバイクや車で通ったりしていたわけで。電車に乗る時は当時ウォークマンと読書を重ねて、なんとか乗り切っていたな。
最近、時々7~8時のラッシュに乗ると、みな朝早くからすごいなぁと思う一方で、毎日この時間をやり過ごさなければならないのは、どこかの自分の回路を断裂させないとやっていけないよなぁと、しみじみ思う。
ぎゅうぎゅうがあたりまえ。ひとつ遅い電車に乗ればかなり隙間があるのに、1分を急いで、もう入らないというほどの混雑した電車に体を押し込んでいく。何十年も体に染みついていたら、当たり前となるのだろうが、ほんとうに仕方がないのだろうか。と、私はひとつ遅い電車に乗る。もちろん、時間の余裕をもって、少しでも空いている電車を選ぶ人たちもたくさんいるけれど、割合でいえば、限界を超えた混雑電車に詰め込まれていくひとが多数派のような気がする。
どの行動を選択するかによって、一日の様子も変わる気がするのだが、自らの選択を「仕方がない」としている人が多くないだろうか。自分の選択は自ら選べるのだから、と、あのつぶれるほどに押し込まれるラッシュの電車の様子を見ると、毎回、ビビる。
20代は体力もあるし、あまり細かいことに気がいっていないから、ほんの30分ならと、やり過ごしもできたと思う。
今、40代後半になって、体力はあるけど、何か自分の中に侵食されたくないものが大きくなって、あの極端なパーソナルスペース欠如を日々繰り返せるか?と思うと、無理だと確かに思う。
そして、新宿駅の人が移動する大混雑のエリアの人の流れ、あんなに混雑していても、自分もできるだけ速足で移動するも、すれ違う時の光景を目で追うと、人となりとその動きが印象に残っていく。
混雑している場所、雑多な場所、汚れた場所で、いかにエネルギー軽くいるのか。
以前、宇宙のおじさんが話していた話を思い出した。
フットワーク軽くいることも、そのひとつだと思った。
どたどた歩かない。あのドタドタと階段を上る足音を聞くたびに、音以上に重いものを感じる。

喜ばしい気持ちもあれば、不快な気持ちもある。
何かや誰かに対して、イヤな感情をもつこと自体まで悪みたいに思いがちだけど、
生きている中で常に平常心で誰にも何にも偏った感情を持たないなんてことはない。
その時に、自分の中に沸きあがった感情をどう消化するか、受け入れるのかで、その先の行方が変わる。そして、それを表出させるのか、自分の中でもうひと段階咀嚼するのかによって、さらにその出来事の解像度が上がる。
「いい人」と設定されている人は、おそらく、その人の中ではたくさんの葛藤があって、さまざまな思いが沸き起こっている。ただ、それを表に出す時には相当ふるいにかけて、そのわずかなエッセンスだけを抽出して表出させているにすぎないと思われる。
時に「いい人」は弱い立場に置かれることもあるかもしれないが、実は本質的な部分を深く理解し事に向き合っている側で、その瞬間は弱者側の設定になろうとも、時間の経過とともに、立場は逆転する。
自分の中にある嫌悪感や違和感は、大切にしてよく、その情感が表れるからこそ、自己理解も深まる。深めるきっかけになる。
考えて言葉を発する人でありたい。