
初対面でも、同じ”言葉”を持ち合わせている人に、ごくごくまれに出会う。
同じ日本語、言語を使っていても、言葉のかみ合いに違和感を持つことがある。
言葉の端が雑だったり、適当な気持ちが表れていたり、言葉を大切にしていないというか、当たり前のように取り扱っているというのか。自分の世界の言葉がOKだなという前提で話す人とか。
人は意外と、言葉の先端に宿るものを敏感に察知していると思う。
すくなくとも、私はものすごく敏感に感じる。
そんな中、キャッチボールがスムーズだったり、同じ尺度の言葉を使っていたりを感じることがある。その時の会話は、実にスムーズで、無理がなく、正直な言葉が紡がれる。
なぜなんだろうと、その人の背景を少し聞くと納得することがある。
そこには、描いたり、書いたり、手を動かして作ったり、創造したり、奏でたり、歌ったり…など、「つくる世界」をもっている人たちなのだと気が付く。
創造的な思考の世界とはまた違う、現実的に身体を使って何かを生み出そうとしてきた人は、細かく見ればもちろん多様ではあるけれど、大きなくくりで同類の言葉を持っている気がする。
共感するとかしないとかは別として、まずは空気を吸うように言葉の理解が進むという感じ。
同じ言葉を持つ人に出会うと、いいなあと思う。

部下との会話の際に出る「でも」「だって」について。
私には部下はいないから、実際のところはあくまでも想像であったり、過去の体験の記憶をたどることしかできないが、おおよその景色は見える。
若い時には、「でも」「だって」は、もはや口癖のような気もするが、自分が発する言葉そのものにさほど意識が向いていないから、無意識に反射的に口にしているケースもあると、自分の過去を思い出してもそうであるし、実際の面談でも感じることもある。
私が面談で受けるそれらの言葉は、その人の意思なり、何か気持ちの動きが出たサインとも受け取れるから、「お!」と思う瞬間だけれど、毎日のように複数の部下との対話をもつ上司であれば、何かを伝えたり指摘したりする度に、「でも」や「だって」を受け取るのだからが、冷静に受け止めたいという気持ちとは裏腹に、次の言葉を繰り出すことに躊躇し、しだいにその部下に対してあきらめの気持ちが強まっていく、というのも十分理解できる。
根気のいる対話であり、上司側の時間的な余裕や心にも余裕がなければ、会話を構築し続けるのはとてもむずかしい。
ただこの時、上司側が、「でも」や「だって」の自分自身の受け取り方によって、ある事実がイヤな感情と結びつきやすくなっていることに気が付けるといい。「でも」や「だって」を自分の発言への不満や反論と受け止めてしまうと、誰でもいい気持ちはしないし、これ以上言っても無駄だと諦めてしまうこともあるから。
「でも」や「だって」は相手からのサイン。
サインが出たら、「お!きたな!」くらいに受け取って、「あなたはなぜそう思うのか?」と、”でも”の理由を聞いてみるといい。すると、相手の思いや考えにもう少し触れることができるかもしれないから。
昨日はその話題のとき、そんな話をさりげなくしてみた。

人の悩みの大半は人間関係といわれるが、「悩み」にも幅や深さ、奥行きがあると思う。
悩んでいるといっても、それほどの悩みでない場合もあるし、またその逆もある。悩まなければいけないことはなく、何か解決策を講じた方がいい場合。
人間関係が複雑なものと受け取ってしまう理由には、表からはそうは見えなくても、人の心の奥底にある自分でも認識していない欲求が種となって、支配する&したい側が生まれ、その矛先となる支配されざるを得ない側という関係性が生じているように思う。
職場においての”上下”は一見すると、仕方のないもののようにも見えるが、実はそれなくしても、関係性は十分成立するものだという私の考えは、現実的には無理とも言われるし実際に難しいことも確かだけど、不可能ではないとも考える。
そこにはケースバイケースでさまざまな視点や思考が必要だから一概に「これが正解」とはいかないけれど、どんな事実も受け取り側の捉え方で現象の景色はかわる。
中学生の時には、この「先輩&後輩」という世界観にどっぷりつかっていたわけだが、今思うと、その頃からその現象にはとても違和感があったし、理不尽なその関係には腹の底ではまったく同意していなかった。だから、生意気だといわれ ”目をつけられる” ことになった。それでも、最終的には真実が強いというのか、安易な上下関係による”目を付けられる”関係であっても、こちらが毅然とした態度で、そのことにおびえもしなければ、相手もつまらなくなり、次第にその行為はなくなっていった。
何が強さなのか
まずは、おかしなことをおかしいと思う気持ち。
そして、それを行動にうつす勇気、だろうか。
こども時代はこれはかなり実現できそうだった、私の時代は。
では大人の、社会に出たらそれはどうなのか。
子どもたちの環境も40年近く前とはまったく違うし、そもそも大人の環境が変わり、良くも悪くもOKとされる思考も行動も多様になった。
人の本質、基本的なものは変わらないと思うのだが、「こどもの事情」も「大人の事情」も、多様に絡んできて、思うほどシンプルにはいかないのだろうが、あきらめることもないと本気で思う。