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大吉朋子 ブログDesigns854
日々、何気なく考えていること、大事にしていること、感動の瞬間日記など思うままに書いている大吉日記。
私自身の備忘録のような、新しい発見になるときもあるから、言葉におこすことは大切ですね。
2025.05.04

人生はじめての内視鏡検査

先月、初めて大腸内視鏡検査を受けた。
強烈な体験だった。検査よりもそこに至るまでが。

何が強烈だったのかといえば、前夜に飲む下剤による症状。
検査を受ける人はみなあんな体験をするのだろうかと、すごいものだと思った。

ふだん、まったく薬を飲まない人間にとっては、薬という物自体が体に強く影響を及ぼすのだろうが、下剤というのがあれほどまでに強烈なのかと、自分の想像をはるかに超えたすごい驚き。
あとで看護婦さんに聞いた話では、どうも私の症状のでた時間は過去最速かも?という話だったけれど、、
とにかく下腹部の痛みというか、腸がよじれるような痛みで目が覚めて、これはまずいとトイレに行くも、意識を維持しているのが難しいほどの痛み。全身から一気に噴き出すあぶら汗。あの感覚もはじめてのものだった。
そんな状況であるのに、痛みとの闘いの意識の中、汗が噴き出してくる瞬間の体の変化は実に興味深かった。全身の汗腺から一気に噴き出すあの感じ。真夏の炎天下にランニングをしたときのレベル。とにかくすごかった。そして、あまりの痛みで気を失っていたと思う。一時間くらいして、やっと痛みがおさまって、意識が戻ってきた。

翌朝から飲む下剤への注意事項の方が詳しく書いてあったけれど、それはなんなくクリアしていき、無事に腸が空っぽになり検査を迎えることができた。腸を空っぽにする作業はさほど苦でもなく、むしろ面白いものだった。本当にだんだんとお水しかでてこなくなるんだから。

検査の結果は問題なく安心した。
そして、私の大腸は少し個性があるということも分かった。遊走結腸だという。
通常は内視鏡挿入から1分で到達する地点まで、私の場合は25分かかったという。若そうな先生かと思いきや、内視鏡検査の経験豊富の腕のいい先生だった。あきらめずに検査をしてくれたのだから、実にありがたい。先生によってはリスクがあるといって途中で検査を辞めてしまう場合もあるという。

カラダの内部にも個性というものがあることの驚きと、
腸という、脳との関わりや感情との関わりも言われてきている臓器に、そのような特徴があるということが、実に興味深かった。

とにかく、腸を空っぽにしたことで、とてもリセットされた感じとともに、あの強烈な体験は、何か自分の中から一皮はがれたような感覚があったことは、間違いないような気がする。

2025.04.29

自己理解を深める旅

ランニングからの帰路、久しぶりに幼馴染に会った。

小一時間も立ち話をしてしまったけれど、幼馴染というのは有難い存在だと心から思った。
彼女とは中学校まで一緒、小学生の時には6年間一緒のクラスだったのだから、なかなか濃いつながりだと思う。誕生日も一日違いという近さ。高校、大学、社会人と、まったく違う世界を生きてきても、移り変わった世代の中で変わらないものがあるのだから、縁というのは実に不思議。

彼女は、お母さんであり、妻であり、会社員であり。
時々ランニングの途中にママ友さん達といるシーンに遭遇していたものの、1対1で話したのは久しぶり。本当にいつぶりだろうか。

近況から少し昔のことまで、弾丸トークをした最後の方、こどもとの向き合い方についての話題になった。
よく娘ちゃんに、ものすごい剣幕で怒るという。自分でもすごいと思うくらいの怒りの放出だという。
手振り身振り付きで説明してくれた。

私には子どもがいないから、現実のことは想像でしかないけれど、だからこそ客観的に見える世界がある。
大人が見ても怖いくらいの怒りは、どう見ても良いものではない。
押し付けにはならない程度に、本人ではなかなか気が付けない部分について、いくつかの話と混ぜながらしてみた。
こどもは、やんちゃだったり、いつも悪さをするような印象があったとしても、この世に生まれて生きてまだたったの数年である。こどもはこども。しかもまだ10歳となれば、こどもである。これは「こども扱い」ということではなく、実際に存在として弱さがあり、守ることが必要な存在だということ。そして、10歳というのはより大切な時期というか、自我が確立してくる時でもあるから、より大人は自分自身の振舞いを見直すタイミングでもあると、私は思っている。
事実、私は10歳の時に今でも大切にしている考え方と出会った。もちろん個人差はあるものの、時間の積み重ねで生じる変化は誰にでもある。個々の違いはあれど「10歳の私」があるということ。

何が言いたいかといえば、たとえば大人が子どもに怒る時、叱る時、まずは大人が自分自身の今に向き合う必要があるのではないか?ということ。
なぜそこで怒りを向けなければならないのか。厳しい口調で言うことが正しいのか。言い聞かせるためとして、強い口調で威嚇することが必要だと考えるからなのか、など。
その瞬間の自己を理解すること。大人にとって大切な瞬間だと思う。
どんなに怒り心頭で怒鳴っても、こどもには決してまっすぐには届かないのだから。

これは大人のコミュニケーションを見たら明らかだと思う。
感情的になっている人の話を誰がまともに聞くだろうか。たいていは、聞いたふりをして聞いていないのだ。大人なら大抵の人はこのことを理解している。であるのに、なぜ子どもに対しては怒りをあらわにする人が多いのだろうか。子どもは弱い立場だからなのか?小さい存在だからなのか?

もちろん、手に負えないやんちゃごともあると思う。ただ、そのやんちゃにも、子どもなりの理由があるのだと思われる。そこをもう一歩深く理解できたら、かける言葉も変わるのではないか、と、ランニングの途中に出会う親子を見ていて、よく感じる。

幼馴染の彼女は賢い人だから、私の話をじっと聞いていた。
次に娘に怒り心頭になった時には、今の話を思い出してみる、と。

大人自身が自己理解を深めることで、子どもの様子もうんと変わるものだと思う。
その変化は測れるものではないが、きっと目に見えてくる。
母の子育ての話を聞き、当時母が思っていたことと、その時の自分が思っていたこと。そして、それらの思考の動きを今の私が眺めると、実に腑に落ちる。児童心理学のプロフェッショナルであっても、自分のこどもに向き合うのには苦労した様子。知識があっても感情が上回る。母親とは、とても大変なキャリアなのだ。

自己理解を深める旅を、かまえず、日常の中に差し込んで小さな時間を積み重ねていけると、すこしづつ目に映る景色がかわっていくと思っている。

2025.04.26

「つくる世界」をもつ人の言葉。

自分観察ノート 大吉朋子

初対面でも、同じ”言葉”を持ち合わせている人に、ごくごくまれに出会う。

同じ日本語、言語を使っていても、言葉のかみ合いに違和感を持つことがある。
言葉の端が雑だったり、適当な気持ちが表れていたり、言葉を大切にしていないというか、当たり前のように取り扱っているというのか。自分の世界の言葉がOKだなという前提で話す人とか。

人は意外と、言葉の先端に宿るものを敏感に察知していると思う。
すくなくとも、私はものすごく敏感に感じる。

そんな中、キャッチボールがスムーズだったり、同じ尺度の言葉を使っていたりを感じることがある。その時の会話は、実にスムーズで、無理がなく、正直な言葉が紡がれる。

なぜなんだろうと、その人の背景を少し聞くと納得することがある。
そこには、描いたり、書いたり、手を動かして作ったり、創造したり、奏でたり、歌ったり…など、「つくる世界」をもっている人たちなのだと気が付く。
創造的な思考の世界とはまた違う、現実的に身体を使って何かを生み出そうとしてきた人は、細かく見ればもちろん多様ではあるけれど、大きなくくりで同類の言葉を持っている気がする。

共感するとかしないとかは別として、まずは空気を吸うように言葉の理解が進むという感じ。

同じ言葉を持つ人に出会うと、いいなあと思う。

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