自己理解を深める旅
ランニングからの帰路、久しぶりに幼馴染に会った。
小一時間も立ち話をしてしまったけれど、幼馴染というのは有難い存在だと心から思った。
彼女とは中学校まで一緒、小学生の時には6年間一緒のクラスだったのだから、なかなか濃いつながりだと思う。誕生日も一日違いという近さ。高校、大学、社会人と、まったく違う世界を生きてきても、移り変わった世代の中で変わらないものがあるのだから、縁というのは実に不思議。
彼女は、お母さんであり、妻であり、会社員であり。
時々ランニングの途中にママ友さん達といるシーンに遭遇していたものの、1対1で話したのは久しぶり。本当にいつぶりだろうか。
近況から少し昔のことまで、弾丸トークをした最後の方、こどもとの向き合い方についての話題になった。
よく娘ちゃんに、ものすごい剣幕で怒るという。自分でもすごいと思うくらいの怒りの放出だという。
手振り身振り付きで説明してくれた。
私には子どもがいないから、現実のことは想像でしかないけれど、だからこそ客観的に見える世界がある。
大人が見ても怖いくらいの怒りは、どう見ても良いものではない。
押し付けにはならない程度に、本人ではなかなか気が付けない部分について、いくつかの話と混ぜながらしてみた。
こどもは、やんちゃだったり、いつも悪さをするような印象があったとしても、この世に生まれて生きてまだたったの数年である。こどもはこども。しかもまだ10歳となれば、こどもである。これは「こども扱い」ということではなく、実際に存在として弱さがあり、守ることが必要な存在だということ。そして、10歳というのはより大切な時期というか、自我が確立してくる時でもあるから、より大人は自分自身の振舞いを見直すタイミングでもあると、私は思っている。
事実、私は10歳の時に今でも大切にしている考え方と出会った。もちろん個人差はあるものの、時間の積み重ねで生じる変化は誰にでもある。個々の違いはあれど「10歳の私」があるということ。
何が言いたいかといえば、たとえば大人が子どもに怒る時、叱る時、まずは大人が自分自身の今に向き合う必要があるのではないか?ということ。
なぜそこで怒りを向けなければならないのか。厳しい口調で言うことが正しいのか。言い聞かせるためとして、強い口調で威嚇することが必要だと考えるからなのか、など。
その瞬間の自己を理解すること。大人にとって大切な瞬間だと思う。
どんなに怒り心頭で怒鳴っても、こどもには決してまっすぐには届かないのだから。
これは大人のコミュニケーションを見たら明らかだと思う。
感情的になっている人の話を誰がまともに聞くだろうか。たいていは、聞いたふりをして聞いていないのだ。大人なら大抵の人はこのことを理解している。であるのに、なぜ子どもに対しては怒りをあらわにする人が多いのだろうか。子どもは弱い立場だからなのか?小さい存在だからなのか?
もちろん、手に負えないやんちゃごともあると思う。ただ、そのやんちゃにも、子どもなりの理由があるのだと思われる。そこをもう一歩深く理解できたら、かける言葉も変わるのではないか、と、ランニングの途中に出会う親子を見ていて、よく感じる。
幼馴染の彼女は賢い人だから、私の話をじっと聞いていた。
次に娘に怒り心頭になった時には、今の話を思い出してみる、と。
大人自身が自己理解を深めることで、子どもの様子もうんと変わるものだと思う。
その変化は測れるものではないが、きっと目に見えてくる。
母の子育ての話を聞き、当時母が思っていたことと、その時の自分が思っていたこと。そして、それらの思考の動きを今の私が眺めると、実に腑に落ちる。児童心理学のプロフェッショナルであっても、自分のこどもに向き合うのには苦労した様子。知識があっても感情が上回る。母親とは、とても大変なキャリアなのだ。
自己理解を深める旅を、かまえず、日常の中に差し込んで小さな時間を積み重ねていけると、すこしづつ目に映る景色がかわっていくと思っている。