
いつの頃かといえば、やはり引っ越しをしてからだと思う。
これまで「二十四節気」という素晴らしい文化がありながらも、あまり自分ごととして身近に置くことがなかった。
立春は、なんとなく節分との繋がりと旧正月のころでもあって、ここが新年の真の始まりのような気持ちで過ごすのは、かれこれ10年くらいになる。がしかし、立夏、小暑、大暑となると、もうしらぬまに過ぎ去っている。
6月30日/夏越の大祓
いつだったか、誰かがこの日のことを話していたけれど、ほんとうに無知とは怖いもので、まったく興味もわかない自分。
6月って、祝日もなく、梅雨の地味な季節という感じがして、その30日、末日と言えど、これと言って特別なことなど感じない、そんな印象だった。
今でも、このジメジメといきなりの暑さがくる、自律神経をおおいに揺さぶる季節にはさほど魅せられていない、と思っていたのだが、歳を重ねるごとに、年々この季節の素敵な空や空気感を感じるようになった。
梅雨入り前のカラッとした気候は気持ちがいいし、真夏までいかない太陽は夏の準備として心地いい。
夏至をピークにその前後の明るさが長い日々は、それだけで高揚感がある。
梅雨の晴れ間の夕方の、ピンク色の空はほんとに好きな瞬間。
6月30日、今年もちょうど半分なのだと、あらためて実感する。
年々猛スピードで世の中が過ぎるように感じ、ささやかなことを大切にしないと、あっという間になかったことになってしまうような時代。あたりまえに平和に健康に過ごしている事も、実はまったく当たり前ではなく、小さなことの積み重ねで成り立っている。
心から、今ある健康な日々と心身に感謝。
家族も無事であることはほんとうに有難い。
こういう感覚を、歳を重ねると持ち合わせることが出来るのだと、20代の自分に伝えたくなる。
引越をしてから、自分の中に眠っていた感覚が色々と表出してきていると、日々思う。
環境で人は変わるのだと、自分自身が日々実感する。

先日出会った光景。
悪気はないと言いつつ、執拗に他者へ自分の思いをぶちまけている人がいた。
様子を眺めていると、何度も悪気はないといい、自虐的にしつこくてごめんね~と言いながらも
自分が大変困ったことを必要以上にその相手へ、言いたいように何度も何度も同じ話を繰り返し、これで最後、と言いながら何度も繰り返していた。
初めは、言われている側の不親切からその現象が起きたのかと状況を理解したものの、とはいえ、あまりにも執拗なものいいに、だんだん言われている人が気の毒になった。
そして、どの角度から見ても、異様な光景であるのと、その距離感が、やや不気味だった。
その時にはよくわからなかったけれど、時間がたつにつれ、あの時の様子は明らかに正気とは言い難い。
怒り狂っている方がまだわかりやすいというのか、人が人に依存しているからこその執拗さ。その相手への勝手な度を越した信頼をもち、それが自分の思いとは裏腹に、適切にかなわなかったことで、より一層、その相手への思いを強くし、何が何でもという思いにかられてしまう。
その本人が自ら言葉でそういった。
「何が何でも会いに行こうと思って」と。
その人は、目指していた場所がわからず、目的地に着けず、さんざん迷ったというのだ。何時間も。
途中、その相手に電話をしたようだが、出なかったと。
で、その相手が電話に出れるかどうかなど、わからないことで、そもそもその人は接客に追われ、仕事をこなすことで手一杯で、電話に出る余裕など、一時もなかったのだ。
仕事をしている身としては想像に難くないのだが、残念ながらその「何が何でも」の人はそうではなかった。だから、電話に出てくれないことも相手を責めていた。
口では「状況がわからなかったから。電話に出ている暇などないわよね」と言いながらも、だ。
はたから見ていても、その様子は終始、言われている人が気の毒でならなかった。
言う側の人の言動があきらかに冷静さを欠いて、自虐的にふるまいながら、無意識に過剰な依存心をむき出しにしている様子が、痛いほど見えた。
人との距離感は適切であることが、ほんとうに大切なんだけれど、
その渦中にいたら、冷静に判断し、距離を取る手段にでることも、かなり難しいなと、しみじみ思った。
人はだれでも何かや誰かに依存しているもので
依存している側が、そうだと認識していればまったく問題ないともいえる。
ただ、度を超すと、片側への負担が大きくなり、おかしな関係性が構築される。
距離感をどのようにとるかというは、どんなに健全な関係においても、最重要課題なのだと思う。
良い関係なら、良い関係が心地よい距離感がせっていされているのだろうし、
あまり良いとは言えない関係には、どちらかの偏りが強いのだと想像する。
「依存」は、している側にその認識がないケースが多い。
先日の光景は、あらためて、人の無意識に沸き起こる感情や言動のレイヤーを、深々と観察する機会だった。

KELOWNA SANDHILL WINES とってもかわいいワイナリーだった♪
先日の、時々出かけるスーパーでのこと。
いつもより遅くなってしまった時間帯、スーパーに到着すると車がほとんどなく、お客さんが少ない様子。
店内に入ると案の定、人の気配があまりなく、落ち着いて買い物ができる雰囲気で少しほっとしていた。
しばらくすると子どもの声が聞こえてきた。
私より後から入ってきた家族のよう。
初めは気になることなく声を聴いていたのだが、だんだんとお父さんお母さんの声も加わって、
私のいる場所に近づいてくると、かなり大きな声で、まるで家で話しているか、それよりも大きそうな声で、2人の大人と子どもが何かしゃべっている。
「話している」というのではなく、「しゃべっている」という様子。
各々が会話していそうで、会話になっているようないないような。
ただ、声の音量がとても大きい。ずっと何かを言い続けている、ご夫婦ともに。
ついいつものクセでその様子を見るともなしに眺めてしまう。
それなりにきちんとした素材の服や靴を履き、豊かな暮らしをされている雰囲気が漂う。
ただ、どうもその会話が耳に入ってくると、だんだんと不愉快な気持ちになってきた。
静かな店内に響き渡る、まるで自分たちしかここにいないかのような声量での話し声。
挙動不審というのか、何か周囲に要求するような動き。
(わざわざ通らなくてもいい通路をどうにかしてそこを通りたいような動きをし続けるお父さん)
わずかに自分にもその挙動が降りかかりそうになったものの、間一髪そこはすり抜けた。
私に対して何も起きていないし、まったく関わりのない人たちであるにも関わらず、彼らと同じ空間にいるというだけで、私はとても不愉快な気持ちになった。
そして自分に聞いてみた。
「何が自分を不愉快にさせているんだろう?」
帰路の車の中、少し思い起こしてみた。そして、一番気になったのは、その言動などから醸し出される「品」のようなものたと思い至った。
「品」は目には見えないし、何だと言い切ることもできないけれど、確実にその人物や物から醸し出されるオーラや雰囲気として私たちは察知している。とても複雑なニュアンスが含まれていると思うが、「あの人は上品だね」とか「これはとても品があるものですね」、「気品あふれる〇〇」など、わりと日常的にそのニュアンスに触れている。
大げさではあるけれど、どんなに身なりが整っていても「品」のない人は何かを醸し出しているものなのだ。そして、まとうオーラは、よくも悪くも隅々まで行き届くもので、所有するものにも表れる。帰り際、その家族の行く末を眺めていたら、私の想像はぴたりと当たった。たぶん乗っている車は〇〇だろうと思ったら、本当にその通りだった。
これはその人たちやその車がいい悪いの話ではない、私の勝手な見立ての話。そして、見立てた人物像とそこから発されるエネルギーと選ばれているものは、ひとつひとつ明確に理由が表れるのだと、妙に腑に落ちたという話。
人間観察も続けていると、意外と精度が上がってくるもので、こういった感覚や気づきは実に面白い。
「不愉快」という気持ちを感じたところから「なぜ?」に発展し自問してみると、不愉快はただの不愉快では終わらず自分が考えるテーマへとすり替わっていく。そしてこれは、感情的にならない方法としても実はとても有効でもある。「その理由」を自分に問うことで、自分の感情すら客観的な対象になる。
それにしても、店内でもレジで会計の時も、不思議なほどタイミングがかぶってしまったその家族。
大人はもう仕方ないと思うが、こどもはやはり大人を見て自分のものさしを決めていくわけだから、あれは根深い課題があるだろうなと、まったく余計なことまでも想像してしまった。