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大吉朋子 ブログDesigns854
日々、何気なく考えていること、大事にしていること、感動の瞬間日記など思うままに書いている大吉日記。
私自身の備忘録のような、新しい発見になるときもあるから、言葉におこすことは大切ですね。
2025.04.29

自己理解を深める旅

ランニングからの帰路、久しぶりに幼馴染に会った。

小一時間も立ち話をしてしまったけれど、幼馴染というのは有難い存在だと心から思った。
彼女とは中学校まで一緒、小学生の時には6年間一緒のクラスだったのだから、なかなか濃いつながりだと思う。誕生日も一日違いという近さ。高校、大学、社会人と、まったく違う世界を生きてきても、移り変わった世代の中で変わらないものがあるのだから、縁というのは実に不思議。

彼女は、お母さんであり、妻であり、会社員であり。
時々ランニングの途中にママ友さん達といるシーンに遭遇していたものの、1対1で話したのは久しぶり。本当にいつぶりだろうか。

近況から少し昔のことまで、弾丸トークをした最後の方、こどもとの向き合い方についての話題になった。
よく娘ちゃんに、ものすごい剣幕で怒るという。自分でもすごいと思うくらいの怒りの放出だという。
手振り身振り付きで説明してくれた。

私には子どもがいないから、現実のことは想像でしかないけれど、だからこそ客観的に見える世界がある。
大人が見ても怖いくらいの怒りは、どう見ても良いものではない。
押し付けにはならない程度に、本人ではなかなか気が付けない部分について、いくつかの話と混ぜながらしてみた。
こどもは、やんちゃだったり、いつも悪さをするような印象があったとしても、この世に生まれて生きてまだたったの数年である。こどもはこども。しかもまだ10歳となれば、こどもである。これは「こども扱い」ということではなく、実際に存在として弱さがあり、守ることが必要な存在だということ。そして、10歳というのはより大切な時期というか、自我が確立してくる時でもあるから、より大人は自分自身の振舞いを見直すタイミングでもあると、私は思っている。
事実、私は10歳の時に今でも大切にしている考え方と出会った。もちろん個人差はあるものの、時間の積み重ねで生じる変化は誰にでもある。個々の違いはあれど「10歳の私」があるということ。

何が言いたいかといえば、たとえば大人が子どもに怒る時、叱る時、まずは大人が自分自身の今に向き合う必要があるのではないか?ということ。
なぜそこで怒りを向けなければならないのか。厳しい口調で言うことが正しいのか。言い聞かせるためとして、強い口調で威嚇することが必要だと考えるからなのか、など。
その瞬間の自己を理解すること。大人にとって大切な瞬間だと思う。
どんなに怒り心頭で怒鳴っても、こどもには決してまっすぐには届かないのだから。

これは大人のコミュニケーションを見たら明らかだと思う。
感情的になっている人の話を誰がまともに聞くだろうか。たいていは、聞いたふりをして聞いていないのだ。大人なら大抵の人はこのことを理解している。であるのに、なぜ子どもに対しては怒りをあらわにする人が多いのだろうか。子どもは弱い立場だからなのか?小さい存在だからなのか?

もちろん、手に負えないやんちゃごともあると思う。ただ、そのやんちゃにも、子どもなりの理由があるのだと思われる。そこをもう一歩深く理解できたら、かける言葉も変わるのではないか、と、ランニングの途中に出会う親子を見ていて、よく感じる。

幼馴染の彼女は賢い人だから、私の話をじっと聞いていた。
次に娘に怒り心頭になった時には、今の話を思い出してみる、と。

大人自身が自己理解を深めることで、子どもの様子もうんと変わるものだと思う。
その変化は測れるものではないが、きっと目に見えてくる。
母の子育ての話を聞き、当時母が思っていたことと、その時の自分が思っていたこと。そして、それらの思考の動きを今の私が眺めると、実に腑に落ちる。児童心理学のプロフェッショナルであっても、自分のこどもに向き合うのには苦労した様子。知識があっても感情が上回る。母親とは、とても大変なキャリアなのだ。

自己理解を深める旅を、かまえず、日常の中に差し込んで小さな時間を積み重ねていけると、すこしづつ目に映る景色がかわっていくと思っている。

2025.04.26

「つくる世界」をもつ人の言葉。

自分観察ノート 大吉朋子

初対面でも、同じ”言葉”を持ち合わせている人に、ごくごくまれに出会う。

同じ日本語、言語を使っていても、言葉のかみ合いに違和感を持つことがある。
言葉の端が雑だったり、適当な気持ちが表れていたり、言葉を大切にしていないというか、当たり前のように取り扱っているというのか。自分の世界の言葉がOKだなという前提で話す人とか。

人は意外と、言葉の先端に宿るものを敏感に察知していると思う。
すくなくとも、私はものすごく敏感に感じる。

そんな中、キャッチボールがスムーズだったり、同じ尺度の言葉を使っていたりを感じることがある。その時の会話は、実にスムーズで、無理がなく、正直な言葉が紡がれる。

なぜなんだろうと、その人の背景を少し聞くと納得することがある。
そこには、描いたり、書いたり、手を動かして作ったり、創造したり、奏でたり、歌ったり…など、「つくる世界」をもっている人たちなのだと気が付く。
創造的な思考の世界とはまた違う、現実的に身体を使って何かを生み出そうとしてきた人は、細かく見ればもちろん多様ではあるけれど、大きなくくりで同類の言葉を持っている気がする。

共感するとかしないとかは別として、まずは空気を吸うように言葉の理解が進むという感じ。

同じ言葉を持つ人に出会うと、いいなあと思う。

2025.04.24

「でも」「だって」をどう受け取るか。

部下との会話の際に出る「でも」「だって」について。

私には部下はいないから、実際のところはあくまでも想像であったり、過去の体験の記憶をたどることしかできないが、おおよその景色は見える。

若い時には、「でも」「だって」は、もはや口癖のような気もするが、自分が発する言葉そのものにさほど意識が向いていないから、無意識に反射的に口にしているケースもあると、自分の過去を思い出してもそうであるし、実際の面談でも感じることもある。

私が面談で受けるそれらの言葉は、その人の意思なり、何か気持ちの動きが出たサインとも受け取れるから、「お!」と思う瞬間だけれど、毎日のように複数の部下との対話をもつ上司であれば、何かを伝えたり指摘したりする度に、「でも」や「だって」を受け取るのだからが、冷静に受け止めたいという気持ちとは裏腹に、次の言葉を繰り出すことに躊躇し、しだいにその部下に対してあきらめの気持ちが強まっていく、というのも十分理解できる。

根気のいる対話であり、上司側の時間的な余裕や心にも余裕がなければ、会話を構築し続けるのはとてもむずかしい。

ただこの時、上司側が、「でも」や「だって」の自分自身の受け取り方によって、ある事実がイヤな感情と結びつきやすくなっていることに気が付けるといい。「でも」や「だって」を自分の発言への不満や反論と受け止めてしまうと、誰でもいい気持ちはしないし、これ以上言っても無駄だと諦めてしまうこともあるから。

「でも」や「だって」は相手からのサイン。
サインが出たら、「お!きたな!」くらいに受け取って、「あなたはなぜそう思うのか?」と、”でも”の理由を聞いてみるといい。すると、相手の思いや考えにもう少し触れることができるかもしれないから。

昨日はその話題のとき、そんな話をさりげなくしてみた。

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