
人の悩みの大半は人間関係といわれるが、「悩み」にも幅や深さ、奥行きがあると思う。
悩んでいるといっても、それほどの悩みでない場合もあるし、またその逆もある。悩まなければいけないことはなく、何か解決策を講じた方がいい場合。
人間関係が複雑なものと受け取ってしまう理由には、表からはそうは見えなくても、人の心の奥底にある自分でも認識していない欲求が種となって、支配する&したい側が生まれ、その矛先となる支配されざるを得ない側という関係性が生じているように思う。
職場においての”上下”は一見すると、仕方のないもののようにも見えるが、実はそれなくしても、関係性は十分成立するものだという私の考えは、現実的には無理とも言われるし実際に難しいことも確かだけど、不可能ではないとも考える。
そこにはケースバイケースでさまざまな視点や思考が必要だから一概に「これが正解」とはいかないけれど、どんな事実も受け取り側の捉え方で現象の景色はかわる。
中学生の時には、この「先輩&後輩」という世界観にどっぷりつかっていたわけだが、今思うと、その頃からその現象にはとても違和感があったし、理不尽なその関係には腹の底ではまったく同意していなかった。だから、生意気だといわれ ”目をつけられる” ことになった。それでも、最終的には真実が強いというのか、安易な上下関係による”目を付けられる”関係であっても、こちらが毅然とした態度で、そのことにおびえもしなければ、相手もつまらなくなり、次第にその行為はなくなっていった。
何が強さなのか
まずは、おかしなことをおかしいと思う気持ち。
そして、それを行動にうつす勇気、だろうか。
こども時代はこれはかなり実現できそうだった、私の時代は。
では大人の、社会に出たらそれはどうなのか。
子どもたちの環境も40年近く前とはまったく違うし、そもそも大人の環境が変わり、良くも悪くもOKとされる思考も行動も多様になった。
人の本質、基本的なものは変わらないと思うのだが、「こどもの事情」も「大人の事情」も、多様に絡んできて、思うほどシンプルにはいかないのだろうが、あきらめることもないと本気で思う。

グループレッスンでのこと。
ピラティスとHIITの掛け合わせで、少しきつい動きのある、アクティブなレッスン。
このきつさを、自分ひとりで生み出して継続するのはさすがに難しいから
このレッスンに参加することは毎回とても楽しみ。終わった後の達成感、今日もできたという自己満足感は、幸福感にもつながっていると思う。
そんな中、つい、周りが見えると観察する癖が出てしまう。自分の体に集中する少し前に観察思考が働く。
トレーナーがガイドする言葉通りに体を動かせばいいし、その体の配置をすればいいだけのはずが、よくみると完全な自己流でやっている人、またはその立ち位置なりに意識が十分に向いていない人が、なかなかの人数いる様子。動きができないのか、たんに雑なのか。個々の体の内部はわからないが、どうも人の声を聴いているようで聞いていないとしか思えない動き。
聞いているとしても、聞いていることと、それを体で表現することはもちろん個体差で違いが生まれるものだが、どうもそこでもなさそう。聞いているようだけど、聞いていない。
その光景を眺めて思うのは、自分の体の動かし方ひとつに微細な意識が向けられることは、おそらく仕事の微細な部分にも気が付けるはず、ということ。大雑把にしか見れなければ、ふだんもそういう視点になりがちだろうと。一見、形ができていそうでも、ところどころに手抜きがあったり、慣れでやっている感じだったり。まさに、仕事にも通じる姿勢がそこに映るように見えてならない。私とは全く関係のない人たちなのだから、あくまでも自分の観察記録。
自分の体に対して感度の高い人は、やはり冴えている気がする。
おそらく間違いない。
カラダの動き、動かし方、意識の向け方によって、見えない部分が見えることはおおいにある。

ふだん行く時間と違う時間帯に出かけると、いつもと違う光景が広がる。
近所のスーパーへ買い物に行く時のこと。
だいたい夕方、暗くなってから行くことが多いと、近所の学生さんや会社帰りの人が多い。
日中となると、その様子はまったく異なり、家族の背景を色濃くした人、高齢の方が断然多い。
その昼間の出来事。
最後の袋づめの場所で、おおげさではなく毎回違う人だけど、同じ行動をする人を見る。
ものすごい量の買い物をしているのだが、袋詰めをする台を占拠するがごとく、周りのことなど一斉気にすることなく作業をしている。
少し眺めてみても、こちらの視線に気づいているのかもしれないが、気にする様子なく、この場所は今は私(俺)のもの、と言わんばかりに袋詰めをしている。
何を考えながら、大量のものを袋詰めしているんだろうと想像を膨らませてしまう。
独りだけの場所ではないことは明らかでも、ゆずれない何かの思いに駆られているのか。
そして、なんとなく不機嫌そうに袋詰めをしているのも共通で、その気持ちがそのたたずまいに現れている。
機嫌よくいること、どんな場所でも大事だと、つくづく思う。”いい人” でいる必要はないかもしれないが、不機嫌をあらわにする必要はないような。よほど自分の安全が保てないことがあれば別だが。
きげんよくいることのメリットはとても大きい。
笑顔も同じ。
心がそう向かないときだってある、それでも少し上を向いたり、挨拶の声のトーンをひとつ高く意識することで、周りが受ける印象も違うし、何よりも自分自身の心持が驚くほど変化する。
無理やりでも、挨拶ひとつでも、自分をほどほどにきげんよく維持できるワザをもっているといいのになと、スーパーからの帰り道、しみじみ思った。