
今月は目まぐるしく過ぎた。
なかなか自分ごととして捉えることができていなかった、介護の世界。
父が暑い夏に体調を落とすことは年々あるとわかっていたが、今年は転がり落ちていくように体力が低下し、おかしくなっていった。
幸いにも母が元気だから、なんとか様子をみていたものの、
さすがに抱えきれないところまできて、一気にことが進んだという記憶。
つい最近のことだけど、ものすごく細かなさまざまな事情などが含まれていて、まるで仕事みたいな。
もしかしたら仕事より、行き届かせる意識が多義にわたるのかもしれない。
高齢になると、下降を始めると、自然治癒力にはほぼ期待できない。
ついこの間までちゃんと歩いていた人が、何かの引き金をひいたところで、ガラガラと体力を手放していく。
気付けば、入退院を経て、自宅に戻り、毎日さまざまな変化を繰り返しながら、本人も大変だろうが、周りも必死にやりくりしている日々。
私は車椅子を車に積んでいる。
ぜんぜん想像していなかったけれど、ごく自然にやっている自分が意外に思う。
家具を車に積むのと同じような感覚というのか。
意識が混濁して、歩くことができなくなっている父、目が見えないのは高齢になるほどその障壁は大きい。
その父を安全に車に乗せるために誘導する。
いつのまにか日常の一コマに加わっている。
歳を重ねるうちにだんだんと、そんなことを想像はしていたけれど、
いざ日常にそのような変化がきた時の、自分の気持ちは想像していなかった。
私が会社員だったら、今のようにはできないな、としみじみ思う。
もっと若かったら、受け止めきれないものもたくさんあると思う。
そして、つい先日、とても心が痛むことがあった。
仕事でのお付き合いで、何回かお会いしていないものの、遠くても近めに感じる存在の方。
何があったのか、想像の世界でしかないけれど、胸が痛むというのはこのことだ。
今月ははじめに9年ぶりのベトナムに行き、そこでもさまざまな思いが生まれた。
夏休みという言葉とは違う、現実にどっぷりつかりながら、現実から少し離れた世界でさまよっている時間も多かったような感じもする。
9月、どうなるだろう。
日々刻々と変化していく真っ只中にある今は、先の事を想像することが少し難しくなる。
距離の置き方は大事だとも実感する。

いつの頃かといえば、やはり引っ越しをしてからだと思う。
これまで「二十四節気」という素晴らしい文化がありながらも、あまり自分ごととして身近に置くことがなかった。
立春は、なんとなく節分との繋がりと旧正月のころでもあって、ここが新年の真の始まりのような気持ちで過ごすのは、かれこれ10年くらいになる。がしかし、立夏、小暑、大暑となると、もうしらぬまに過ぎ去っている。
6月30日/夏越の大祓
いつだったか、誰かがこの日のことを話していたけれど、ほんとうに無知とは怖いもので、まったく興味もわかない自分。
6月って、祝日もなく、梅雨の地味な季節という感じがして、その30日、末日と言えど、これと言って特別なことなど感じない、そんな印象だった。
今でも、このジメジメといきなりの暑さがくる、自律神経をおおいに揺さぶる季節にはさほど魅せられていない、と思っていたのだが、歳を重ねるごとに、年々この季節の素敵な空や空気感を感じるようになった。
梅雨入り前のカラッとした気候は気持ちがいいし、真夏までいかない太陽は夏の準備として心地いい。
夏至をピークにその前後の明るさが長い日々は、それだけで高揚感がある。
梅雨の晴れ間の夕方の、ピンク色の空はほんとに好きな瞬間。
6月30日、今年もちょうど半分なのだと、あらためて実感する。
年々猛スピードで世の中が過ぎるように感じ、ささやかなことを大切にしないと、あっという間になかったことになってしまうような時代。あたりまえに平和に健康に過ごしている事も、実はまったく当たり前ではなく、小さなことの積み重ねで成り立っている。
心から、今ある健康な日々と心身に感謝。
家族も無事であることはほんとうに有難い。
こういう感覚を、歳を重ねると持ち合わせることが出来るのだと、20代の自分に伝えたくなる。
引越をしてから、自分の中に眠っていた感覚が色々と表出してきていると、日々思う。
環境で人は変わるのだと、自分自身が日々実感する。

先日出会った光景。
悪気はないと言いつつ、執拗に他者へ自分の思いをぶちまけている人がいた。
様子を眺めていると、何度も悪気はないといい、自虐的にしつこくてごめんね~と言いながらも
自分が大変困ったことを必要以上にその相手へ、言いたいように何度も何度も同じ話を繰り返し、これで最後、と言いながら何度も繰り返していた。
初めは、言われている側の不親切からその現象が起きたのかと状況を理解したものの、とはいえ、あまりにも執拗なものいいに、だんだん言われている人が気の毒になった。
そして、どの角度から見ても、異様な光景であるのと、その距離感が、やや不気味だった。
その時にはよくわからなかったけれど、時間がたつにつれ、あの時の様子は明らかに正気とは言い難い。
怒り狂っている方がまだわかりやすいというのか、人が人に依存しているからこその執拗さ。その相手への勝手な度を越した信頼をもち、それが自分の思いとは裏腹に、適切にかなわなかったことで、より一層、その相手への思いを強くし、何が何でもという思いにかられてしまう。
その本人が自ら言葉でそういった。
「何が何でも会いに行こうと思って」と。
その人は、目指していた場所がわからず、目的地に着けず、さんざん迷ったというのだ。何時間も。
途中、その相手に電話をしたようだが、出なかったと。
で、その相手が電話に出れるかどうかなど、わからないことで、そもそもその人は接客に追われ、仕事をこなすことで手一杯で、電話に出る余裕など、一時もなかったのだ。
仕事をしている身としては想像に難くないのだが、残念ながらその「何が何でも」の人はそうではなかった。だから、電話に出てくれないことも相手を責めていた。
口では「状況がわからなかったから。電話に出ている暇などないわよね」と言いながらも、だ。
はたから見ていても、その様子は終始、言われている人が気の毒でならなかった。
言う側の人の言動があきらかに冷静さを欠いて、自虐的にふるまいながら、無意識に過剰な依存心をむき出しにしている様子が、痛いほど見えた。
人との距離感は適切であることが、ほんとうに大切なんだけれど、
その渦中にいたら、冷静に判断し、距離を取る手段にでることも、かなり難しいなと、しみじみ思った。
人はだれでも何かや誰かに依存しているもので
依存している側が、そうだと認識していればまったく問題ないともいえる。
ただ、度を超すと、片側への負担が大きくなり、おかしな関係性が構築される。
距離感をどのようにとるかというは、どんなに健全な関係においても、最重要課題なのだと思う。
良い関係なら、良い関係が心地よい距離感がせっていされているのだろうし、
あまり良いとは言えない関係には、どちらかの偏りが強いのだと想像する。
「依存」は、している側にその認識がないケースが多い。
先日の光景は、あらためて、人の無意識に沸き起こる感情や言動のレイヤーを、深々と観察する機会だった。