依存から生じる不適切な距離感
先日出会った光景。
悪気はないと言いつつ、執拗に他者へ自分の思いをぶちまけている人がいた。
様子を眺めていると、何度も悪気はないといい、自虐的にしつこくてごめんね~と言いながらも
自分が大変困ったことを必要以上にその相手へ、言いたいように何度も何度も同じ話を繰り返し、これで最後、と言いながら何度も繰り返していた。
初めは、言われている側の不親切からその現象が起きたのかと状況を理解したものの、とはいえ、あまりにも執拗なものいいに、だんだん言われている人が気の毒になった。
そして、どの角度から見ても、異様な光景であるのと、その距離感が、やや不気味だった。
その時にはよくわからなかったけれど、時間がたつにつれ、あの時の様子は明らかに正気とは言い難い。
怒り狂っている方がまだわかりやすいというのか、人が人に依存しているからこその執拗さ。その相手への勝手な度を越した信頼をもち、それが自分の思いとは裏腹に、適切にかなわなかったことで、より一層、その相手への思いを強くし、何が何でもという思いにかられてしまう。
その本人が自ら言葉でそういった。
「何が何でも会いに行こうと思って」と。
その人は、目指していた場所がわからず、目的地に着けず、さんざん迷ったというのだ。何時間も。
途中、その相手に電話をしたようだが、出なかったと。
で、その相手が電話に出れるかどうかなど、わからないことで、そもそもその人は接客に追われ、仕事をこなすことで手一杯で、電話に出る余裕など、一時もなかったのだ。
仕事をしている身としては想像に難くないのだが、残念ながらその「何が何でも」の人はそうではなかった。だから、電話に出てくれないことも相手を責めていた。
口では「状況がわからなかったから。電話に出ている暇などないわよね」と言いながらも、だ。
はたから見ていても、その様子は終始、言われている人が気の毒でならなかった。
言う側の人の言動があきらかに冷静さを欠いて、自虐的にふるまいながら、無意識に過剰な依存心をむき出しにしている様子が、痛いほど見えた。
人との距離感は適切であることが、ほんとうに大切なんだけれど、
その渦中にいたら、冷静に判断し、距離を取る手段にでることも、かなり難しいなと、しみじみ思った。
人はだれでも何かや誰かに依存しているもので
依存している側が、そうだと認識していればまったく問題ないともいえる。
ただ、度を超すと、片側への負担が大きくなり、おかしな関係性が構築される。
距離感をどのようにとるかというは、どんなに健全な関係においても、最重要課題なのだと思う。
良い関係なら、良い関係が心地よい距離感がせっていされているのだろうし、
あまり良いとは言えない関係には、どちらかの偏りが強いのだと想像する。
「依存」は、している側にその認識がないケースが多い。
先日の光景は、あらためて、人の無意識に沸き起こる感情や言動のレイヤーを、深々と観察する機会だった。
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