
人生におけることは、すべて無意味なことなんかなくて、今すぐに必要でなくても、必ずいつかにいつかのことが役立つものだと、心から思っている。
だから、人とのコミュニケーションの難しさだって、いつかは他の何かにその経験が役立つわけだと思いつつ、延々、暖簾に腕押しというのが続くと、少々へこたれる。
理性が働く相手であれば、その時に難しくても時間が経過すると変化することは経験上で実感がある。
では、理性が働いていない(と思われる)相手の場合は、どうしたものなんだろうか。
いつの日か、このモンモンとした思いや気持ちが、役立つ時が来るとほんとうに思うけれど、
今の今、どう対処したものかと、悩むのも事実。
あの時はこうだったなー、と、軽やかに言ってのける頃は必ず来るから、今はこの学びを自分なりにあの手この手の角度から眺めるしかないのか、な。
10数年前もよくそんな心境になっていたけど(ちょっと状況が違うけど)、「3か月後の自分は今と同じ思いだろうか?」と、自問自答していたことを思い出す。
幸いにも、そこまでネガティブ思考が強くはないから、3か月後は今の思いは全然ないだろうなって思って、いつもやり過ごしていた。
あの時の恐ろしくパワーがあって、どこか狂ったように自分を追い込んでいた頃は、それはそれで多くの学びをのちにもたらしたけど、だからこそ、今の自分がどう目の前にあることに取り組むかはなかなか興味深い。

意識的にも、無意識にもよく使うことばに、「ありがとう」と「すみません」がある。
使い方によって、とても意味が異なるし、印象もとてもちがう。
どちらでもいいように思う事もあるかもしれないけど、このふたつの言葉は意識して使い分けたいと思う。
「すみません」をよく言う方にお会いした。
悪いわけでもないのに「すみません。」
しばらく話していても、しょっちゅう「すみません」というので、どうしてなのか聞いてみたら、
「すみません」と言うと、だいたいは話がこじれずに、相手に嫌な思いをさせることなく会話ができる、というようなことを以前の職場で習ったといい、印象を悪くしないための「つなぎ言葉」のような役目もあるというような説明だった。
なんてこった。と正直思った。
そういうシーンももちろんあると思うし、否定はしないけど、良くはない。
場合によっては相手を馬鹿にしているようにも受け取れてしまう気配すら感じたから。
それほど気にして聞いていなくても「ありがとう」という響きの方が、いい感じだと思うし、
「ありがとうございます」って、やはり気持ちがきれいになるような言葉だと思う。
「すみません」をいう時の思考回路と、「ありがとうございます」をいう時の思考回路はまったく違うだろうから、
できるなら、「ありがとうございます」を言える思考回路や視点を持ち合わせていたいと、思う。
日本語の「すみません」は、とても使い勝手が良くて、独自のニュアンスを伝える言葉なのだけれど、それを「ありがとうございます」に置き換えてみたら、もっと違うものが見えるんではないだろうかな。

今年はお気に入りのシャクヤク園の直売がお休みで、この素晴らしいお花に出会えなかった。来年は会えるかなぁ。
この自分日記を書こうと決めたのに、瞬く間に時間が過ぎて、今はもう6月。
最初の投稿は今年の初め頃で、すでに今年も半分あたりまで来ていることに少々ビビる。
ここ数日、めったにない疲労感を感じて、海に入ってなんかすっきりしたいなぁと思いながら、なぜかその腰までもが重く。
それでもこの状態の打破は海に入るしかない気がして、やっといった。
そして、ほんとうに久しぶりに時間を気にせずに、頭の中がスカッとするまで海に入ってみた。
いつものクセで、ある程度のところで一度海から上がってみたけど、なんとなくまだモヤっとした感じが残っていて、もう一度入ってみた。そして何本か乗っっていたら、気が付いたらだんだん頭の中がすっきりしていることに気が付いて、うれしかった。
ああ、この感覚か、と、何か凝り固まった考えが消え去っている感じを、生々しく感じられて、驚きでもあった。
脳の仕組みを理解したというのか。
サーフィンはほんとうにいい。
しかも、雷雨の予報だったのに晴れてきて、実に気持ちの良い空になっていて。
驚くべき波乗り効果を今回は強く実感。
気持ちが軽くなるって、これだよねぇ。